新島八重墓前礼拝~没後80年を憶えて

2012年6月14日、新島八重没後80年を憶えて、若王子同志社墓地にて、墓前礼拝を行いました。同志社同窓会、同志社女子大学、同志社女子中高、同志社大学から有志25名ほどが集いました。

新島八重 墓前礼拝没後80年を憶えて

同志社同窓会会長 阿部登茂子

 同志社創立者 新島襄の妻八重さんが来年(2013)NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決定したことが報道されて以来、同志社では八重プロジェクトを立ち上げ、女子大学では八重研究会が発足されています。

 同窓会では昨年より旧い同窓生から八重さんについての聞き取りなど資料・情報収集をはじめ、本年の『同窓会会報』52号で新島八重を特集しております。八重さんはアメリカンボード派遣のドーン宣教師夫人と自宅で私塾を開き、その後柳原邸でスタークウエザーと共に教えるなど、同志社女子部の基礎をつくられました。同窓会では第3代の会長をお勤めになり、永眠なさるまで同窓会と繋がっておられたことなど、女子部や同窓会との繋がりの深い事がいろいろと分かって参りました。

同窓会は女子部合同で八重さんの追悼会を没後1年、3年、10年と開催しております。 本年は八重さんの没後80年で614日は永眠された日です。そこで、同窓会有志で八重さんに近況ご報告も含め墓前礼拝を計画いたしました。

奨励いただきました坂本清音同志社女子大学名誉教授の「同志社同窓会と新島八重」を是非みなさまにお読み頂きたく先生より原稿を頂きました。

同志社同窓会と新島八重

 坂本清音

 今日は先ず、八重さんにお詫びしなければなりません。

・私はこれまで、学生時代から数えて何十回か若王子墓地に来ていると思いますが、全て新島先生のため、同志社のためだけで、八重さんの墓前では、軽く頭を下げる位だけでした。

・ところが、昨年6月に、「2年後の2013年」に―もう来年になるのですが―新島八重がNHKの大河ドラマの主人公に決まってからは、あちらでもこちらでも、八重さん八重さんで、八重さんの俄か勉強が始まりました。恥ずかしながら、私もその一人です。

・少しブームを振り返ってみます。世間的には、八重さんが少しずつ存在感を示し始めたのは、今から3年前の、20094月にNHKが放送した「歴史秘話ヒストリア」からです。タイトルは「明治悪妻伝説 初代“ハンサム・ウーマン”新島八重の生涯」でした。

・その時まで、八重さんと「ハンサム」という言葉が結びついて語られることはなかった(多分一度も?)のですが、あれ以来、爆発的に知れ渡り、今や八重さんの枕詞のようにさえなりました。

・次が、2年前の本井康博先生の、新島襄を語るシリーズ(7)『ハンサムに生きる』(2010年)です。先生はNHKの番組に協力されたこともあって、「ハンサム」という言葉をはやらせるのに一役買われました。この著は、新島襄シリーズではありましたが、半分以上の章で八重を扱っておられます。

・そして今回のブームです。

同志社同窓会でも、八重さんって「同窓会長をしはったことがありましたよね」から始まって、是非とも次号の『同窓会報』では、八重さんの特集を組むことにしましょうと、とんとん拍子に話が進みました。そこで、私にもお声がかかり、あわてて『同志社女学校期報』の新島八重の項目をしらみつぶしに調べることになりました。

・その結果、八重さんが夫、襄の没後、学園同志社とは一線を画した生活をするようになってからも、生涯を通してずーっと、同窓会とは関わりがあったことが分かって来ました。

・先日も同志社社史資料センターで、八重さんと同窓会との関わりを話していましたら、皆さんご存じなくて、びっくりされていました。同窓会としては、これから大いに広報する必要がありますね。

・ここで少し、同窓会の歴史を振り返ってみましょう。

・同窓会の始まりの年は、皆さんもよくご存じのように、1893年です。それは、1882年に最初の卒業生が出てから11年後のことになります。理由は、最初の10年は、同志社女学校の卒業生は、毎年、多くて56人、全然ない年もある状態でした。1893年になって初めて、中退者や特別会員を入れて、やっと100名近い会員が見込まれたからです。

・そして、その翌年から同窓会の最初の事業として始まったのが、機関誌『同志社女学校期報』の発行です(『期報』は同志社女子部の歴史を遡るときに、なくてならない資料となっています)。その中で八重さんは、創刊号から、ほぼ毎号のように、名前が出て来ます。

・あるときは関連する記事であったり、あるときは何かの会の出席者・参加者名簿の中に名前があるだけです。

・ただし、八重さんの入会は、同窓会がスタートして3年後の1896年です。新島亡き後、同志社の社長になっていた小崎弘道夫人と一緒の入会であり、八重さんはその2年後には、早速第3代同窓会長に就任しました(1898-1899)。

・それまで会長の任期は、初代能勢道子は21893-95)、2代湯浅治郎夫人初子は3年(1895-98)でしたが、3代の新島八重から11代の半田多喜までは1年任期1215代までは2年。16代から3年任期となって、現在に至っています。

・会長就任後、八重さんはほとんど毎回、総会および京都支部の集まりに出席しておられることが分かりました。

・しかし八重さんの性格からして、同窓会の人たちと、進んで交わることはなかったようですし、そこで、親しい友人ができたようでもありません。八重さんにとって、同窓会は矢張り京都(みやこ)の人が中心の集まりであって、生涯会津っ子であった八重さんには、「自分の居場所と少々違う」と感じておられたのかもしれません。

・でも、同窓会の方は、未亡人となってお淋しいであろう八重さんに対して、絶えず、出来る限りの心配りをし、お世話をし、様々な会合にお誘いしました。

・八重さんが亡くなられる年、1932年の211日、栄光館竣工祝賀記念式の夕に、米寿のお祝いをホテルでしようと、主になってお世話をしていたのも、同窓会でした。残念ながら、その日八重さんは体調がすぐれず、記念の式典にも出席されず、夜の祝賀パーティも延期となりました(その日から、八重さんの召天までの4カ月の間に、結局パーティは実施されませんでした)。

・同窓会は、あらかじめお祝い金も集めていましたので、当日の夜、荻原芳枝(同窓会会長)と鏑木(かぶらぎ)薫(京都支部幹事)が新島邸を訪問し、紅白鏡餅に添えて米寿祝賀金を持参しました(因みに、お祝い金の金額は28921銭、鏡モチ代120銭でした)。

・「奥様には非常にお喜びになり、皆さまによろしくとの謝意を伝えるよう仰せになった」「奥様はその後日増しに快方に向かって居られるが、乞ご加祷」と、『女学校期報』56号(193235日発行)に記載されています。

・八重さんはそれから少し元気になられ、33日にはお雛様の節句を祝われたり、お好きな茶会にも出席されるなどして過ごされるのですが、80年前の今日、急性胆のう炎のため、ご自宅でお亡くなりになりました。

・最後に、今度同志社同窓会編として淡交社から出版される新島八重の本について少しだけご紹介させて頂きます。その中で、私が分担するのは、第1章の「八重という個性」なのですが、その他に、「夫婦生活」「会津での日々」「教育」「キリスト教信仰」「看護精神」「茶の湯」という計7つのテーマで、それぞれ研究者が執筆しております。『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』という書名で、9月中旬には書店に並ぶ予定です。

・結語に変えて、私の章の最後の部分を読んで終わりとさせて頂きます。

 山室軍平は、八重の告別説教のなかで、亡くなる三か月前に病床の八重を見舞ったことに触れている。「神の恵みの忝きことの数々語り出でて、幾度か『感謝』『感謝』といふておられ(中略)、何ら執着する所なく、只管天国の栄を望んでおらるる有様に敬服した」と。最晩年の八重は、会津時代を懐かしみつつも、神の国を目指して平安の内に日々を送っていたことが分かる。

    八重という個性は、生涯にわたって、前を向いて熱く燃え、自由で、気ままで、愉快で、潔かった。心の底に「生かされている」という思いがあったから、淋しさや空しさにめげることもなかった。召天の3日前も前日にも茶席に出向き、好きなことをして逝った。

    八重は、八重という個性を最期まで生き通した。女性の生き方にまだまだ制約があった時代に、何とあっぱれな人生だったろう!

以上です。今日ここに集まった一人ひとりが、これからは真剣に八重さんに向き合って、八重さんに恥じない生き方をしていくことができたら、これまで八重さんを疎かにしていた罪滅ぼしになるかもしれないと思っています。

 

20126141100 同志社同窓会有志主催「新島八重墓前礼拝―没後80周年を憶えて―」での奨励に加筆修正したもの

 

ページの先頭へ